横浜港の象の鼻、幕末から”信州産”生糸輸出で賑わう

皆様は横浜港へ行かれたことはありますか?
今でこそ横浜みなとみらい21が横浜の中心のようになり、レトロな赤レンガ倉庫も人気スポットになっています。

しかし、横浜と言えば、「港」なのです。
大桟橋がある辺りが、横浜港の古くからの中心です。大桟橋とは言っても、今の大桟橋は「くじらのせなか」。まるで大きなクジラの背中に乗っているかのような不思議で巨大な空間です。

▼横浜港の大桟橋「くじらのせなか」

(写真:蚕都上田プロジェクト主催「港都横浜ツアー」2011/03/26 から)

その大桟橋の付け根にこじんまりとした港湾があります。

この小さな港湾が今から150年ぐらい前にできた横浜港の最初の港です。150年ぐらい前と言えば、何時代でしょうか?

江戸時代です。1858年、当時の幕府がアメリカなどの外国と修好通商条約を結んで、日本は1859年、横浜を開港して外国と貿易を始めました。江戸時代に貿易を始めた頃の港湾がこのように今も原形をとどめているのってスゴイと思いませんか?

しかも「象の鼻」です。港湾の堤防の形が象の鼻に似ていることから「象の鼻」と呼んで親しまれるようになりました。

堤防は平坦な海面に存在しているので横から見るとその形はよくわかりません。上の写真を見ると単なる堤防にしか見えません。その向こうの赤レンガ倉庫がむしろ印象的に迫って見えてきます。

実は、この象の鼻こそ、日本から生糸が世界に輸出され始めた頃の横浜港の姿なのです。横浜が開港した1859年の頃、この港湾はイギリス人が主に使っていたことからイギリス波止場と呼ばれていました。1859年、日本から初めて外国に輸出された生糸は信州の上田から運ばれた生糸であることが最近になってわかってきました。
ところで次の荒ら屋は何でしょうか?

(写真:蚕都上田プロジェクト主催「蚕都上田まちあるき~丸子編~」2009/09/19 から)

これは江戸時代に建てられた郷倉(ごうぐら)です。
上田市生田の飯沼にあります。米を貯蔵する蔵でしたが、この蔵の2階にはたくさんの文書が保管されていました。その古文書が最近になって調査され、上田の生糸がいち早く横浜へ送られたことがわかってきたのです。横浜は何度も大火災を経験しました。関東大震災では多くの建物が崩壊しました。そのため数多くの記録が失われてわからないことが多かったのです。
もう一つ面白い絵をお見せします。

(斎藤ホテル所蔵「横浜案内絵図」1877年頃)

明治10年(1877年)頃の横浜の地図です。この港が横浜港(イギリス波止場)です。まさに象の鼻の形をしています。この地図も実は信州にあったものです。上田市の鹿教湯温泉にある斎藤ホテルは、当時、旅館の他に製糸工場も営んで外国との取引がありました。そのため、横浜から多くの文書が信州にやってきました。この地図もその一つです。

言い換えれば、横浜開港の頃の貿易の事実が、上田の郷倉に残っていた文書から明らかにされたのです。当時、輸出された生糸は上田だけでなく周辺の地域から集められたと言います。

江戸時代から信州と横浜がつながっていました。後に日本の輸出品目となる生糸が上田から最初に出荷されたのも不思議な因縁です。横浜に信州の歴史が見えてきますね!

(ミッチー)

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