岡谷蚕糸博物館リポート その4 製糸の機械の進歩

製糸の機械の発展のコーナーです。
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地味な展示のように見えますが、日本の近代化はたぬまない技術開発の力によるものだと実感できます。

江戸時代までの生糸づくりは「手挽き」が一般的でした。一方の手で糸を引き上げてよりを掛け、もう一方で糸枠を回し巻き取る方法です。

幕末から発展したのが「上州座繰り」。糸枠に歯車を組み合わせて回転数を早め、生産性を向上させました。

1975(明治8)年に平野村の武居代次郎が開発した諏訪式が急速に普及し、日本の生糸の生産性が向上しました。明治中期以降には一度に糸を引き出す条数が増え作業能率が高まっていったのだそうです。

大正時代には、繭を煮る作業と糸を取る作業が分業化されて製糸の技術はさらに工場しました。操糸機から繭を煮る鍋がなくなった分、一度に糸を取る条数が増えていきます。

そのころ御法川直三郎という人が逆転の発想で、画期的な多条操糸機を開発します。
それまでは大量に早く、をめざして来ましたが、御法川さんは蚕がゆっくり糸を吐くようにゆっくり糸を取った方が品質が高くなるのではないか、という発想で機械を改良したそうです。

スピードは以前の4分の1から5分の1。その分一度に20条。生産性は下げず、ゆっくり機械を回すことで空気を含み、弾力性がある糸ができるようになったのです。糸の管理も楽になるので、品質も向上。片倉製糸で実用化されて、その生糸はアメリカでストッキングとして愛用されて、絶賛されたとのこと。

製糸業の発展は日本のものづくりの基礎なのだと実感します。

その後も改良されて
織田式多条繰糸機 (諏訪式と御法川式の機能を持ち合わせたもの)
増沢式多条繰糸機 (陶製の繰糸鍋が特徴で、戦後全国に普及した)
などが登場。

さらには繭糸を継ぎ足す「接緒」が自動的に行われる自動繰糸機へと進んでいきます。

と、このような明治期の繁栄を感じることができる岡谷シルクミュージアム。
ぜひ一度訪れてください。

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