岡谷蚕糸博物館リポートその3は、製糸業を支えた工女さんのお話です。
(前の記事は下記より)
近代製糸業の発展
幕末の横浜港開港直後から、日本から欧米への輸出品の主力は生糸でした。海外の技術を導入し、大規模な工場が建設されて、日本の近代化を進めました。このあたりの歴史をパネルで紹介しています。
パネルによると1872(明治5)年にイタリア式操糸技術を上諏訪の深山田製糸場に導入したのが、信州の機械製糸の始まり。富岡製糸場で技術を学んだ和田英らが長野市松代に六工社を開いたのが1874(明治7)年でした。さらに翌年、平野村(現在の岡谷市)に中山社を操業し、諏訪式操糸機を開発し、全国に広がったのです。
1924(大正13)年の生糸生産高トップは長野県で全国の29% 岡谷は全国11%を占める有数の産地だったのです。
岡谷の製糸工場にはたくさんの若い工女さんが働いていました。
製糸工女というと「ああ野麦峠」の印象が強く、つらく、きつく、苦しいイメージがつきまといますが、そればかりではない、というのがこちらの展示です。
当時の日本の農村は貧しく、女性が働いてお金を稼ぐ場所は限られていたこともあり、若い女性にとっては製糸工場がいい働き場所だったという面があります。
製糸工場の献立表が残っています。 麦を入れた米、みそ汁、めざし、乾物・・・・
三食食べられて、夜は裁縫、読み書きそろばんを学び、運動会もありました。
病院もあって病気の時は手当を受けられた。
「見てください。顔がつやつやしている工女さんが多いでしょ」と高林館長。
工女さんたちの写真を見ると、確かにげっそりやつれている人はいません。夜や休みの日には若い女性たちで岡谷の街はにぎわったそうです。
化粧品や小間物店が多いのは若い女性が市民の半分を占め、ニーズが高かったからです。
熟練した工女は年収が100円で、「100円工女」と言われていました。家が一軒建つほどの収入。繭から糸をとり均一の太さに仕上げていくには高い技術が必要で、試験を行って等級を決めていました。高給を稼いだ工女たちは全体の1割程度。
むろん病気になったり、なくなったりした女性もいましたが、マイナスの面だけではなかったことも、ここで実感できます。
「ああ野麦峠」は当時の工女の仕事や暮らしぶりをよく調べて書いた作品です。
映画の印象があまりにも強く、つらく厳しく苦しい工女の生活、というイメージが出来上がってしまったような気がしています。
確かに仕事がうまくいかなかった例や自殺した例もありました。繭を煮るにおいの中、湿度が高い室内で長時間働くのはどんなにつらかったことか。
ただし、当時の日本は貧しくて、家にいても食べることも大変だった。。。
だからこそ、働いて稼ごうという夢もあったわけです。
地元岡谷の方にとっては、あまりに一方的な見方をしないでほしい、という気持ちなのでしょう。